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加藤 賢一(大阪市立科学館)1.夕焼け雲
昨年末、一心寺での会合で山折哲雄先生(当会名誉会長、1931-)が美空ひばり(1937-1989)と彼女の歌について夕陽をからめて話された。インドや中国での豊富な体験に裏打ちされたその話は軽妙でかつ展開がみごとで、静かな語り口とは裏腹に熱い想いに満ちていた。宗教を研究対象とする哲学者が世俗まみれとも言える流行歌の世界に(と言うか、美空ひばり、に)歌舞いてるという意外性が私には何とも微笑ましく、「先生、これで点数稼いでいるな」と思った。まさか、あの山折先生の口から「真っ赤に燃えた太陽だから・・・」のせりふが出てこようとは!
私はラジオをつけっ放しで寝ることがある。この12月、明け方近くの時間帯に作家の五木寛之氏(1932-)が出演していて、歌謡曲を解説している場面に出くわした。ふだんは夢うつつの中で聞くともなしに聞いているので、目覚めと共に話の中身はすっかり霧散してしまうが、この日ばかりは記憶に残った。千昌夫(1947-)が歌うところの「夕焼け雲」(1976)を話題にしていた。西方浄土がどうのという微かな記憶から調べてみると、五木寛之という作家は「蓮如」について書いているし、その前には仏教を勉強し「21世紀仏教への旅」なんてシリーズも出版していた。道理で源信やら西方浄土といった用語が自然に出てきたわけだ。あまつさえ、五木ひろし(1948-)の「ふりむけば日本海」なんて歌の作詞までしていた! 歌謡曲の専門家でもあった。 それはさておき、「夕焼け雲」の歌詞を見ていたら、これが結構、聞かせる中身で、ぐぐっときた。一番を紹介しておこう。 夕焼け雲に 誘われて 短い歌詞だから作者の意図を明確に汲み取ることは難しいが、きれいな夕焼け空とせつない別れが裏腹にあって、見事な対照を見せており、作詞者の非凡さが十分感じられる。で、この作詞者だが、横井弘(1926-)という方だそうだ。寡聞にして知らず、調べてみると、大変な作詞家で、伊藤久男が歌った『あざみの歌』(1951年)、三橋美智也の『哀愁列車』(1956年)や『達者でナ』(1960年)、倍賞千恵子の『下町の太陽』(1962年)や『さよならはダンスのあとに』(1965年)、仲宗根美樹の『川は流れる』(1961年)、中村晃子の『虹色の湖』(1967年)などなど、私でさえ知っている往時のヒット曲の数々を作っていた。「夕焼け雲」(1976)は50歳位の時の作である。人生の紆余曲折が織り込まれているような気がしたのも間違いではなかったようだ。「親父と同じ生年だが、全然違うなあ」などと、しばし、妙に感心したが、もとより詮無きことであった。 2.風は西から
手元に Astronomie、つまり「天文学」と題する本が置いてある。書いたのは La Lande ラランデ(1732-1807)というフランス・パリ天文台の台長だった人で、出版年は M.DCC.LXXI.、つまり1771年である。これは第2版で、初版はその7年前の1764年だから結構よく売れたらしい。全4冊から成り、1冊あたり850ページもあるから、読めたとしてもそれはそれは大変だ。だから、書く方はもっと大変だったろうが、やがて労苦が実り、オランダ語を初め、ドイツ語、ロシア語等々、各国語に訳された。そして、なんと日本語訳(1803)もあるというから畏れ入る。江戸時代のことである。
日本語へ翻訳したのは大阪の人。大阪城の城番という、今で言えばガードマンのような警護役の下級武士だった人で、その上、オランダ語が読めないのにオランダ本から極めて正確に訳したというから、びっくりだ。この天才は名を橋至時(よしとき)(1764-1804)と言う。極めて精緻な日本地図を作った伊能忠敬(1745-1818)に測量術や天測術を授けた人で、シーボルトにその伊能作日本地図を渡したというシーボルト事件の中心人物橋景保(かげやす)(1785-1829)は至時の長男である。
大阪城の城番の子として生まれた至時は15歳でその役を受け継いだ。算学に秀で、1787年、麻田剛立(1734-1799)の門に入り、天文暦学を学んだ。その頃は、八代将軍吉宗(1684-1751)によって禁書令が緩和されていて、麻田一門は中国経由で伝わってきたヨーロッパの天文学を研究していた。つまり、漢文でサインやコサインなどを扱っていたのである。麻田は医者、弟子は下級武士や商人達で、山片蟠桃なども出入りしていた。
当時の天文学は、いつ満月になるとか、いつ頃、どんなふうに日食が起こるかと言った天体運行予測が中心課題だった。これは暦(旧暦、太陰太陽暦)を作成する上で欠かせない技術であり、江戸幕府にはそれを専門とする天文方というお役人がいて、計算結果を伊勢暦などとして出版していた。問題はそれが時々ずれることだった。幕府公認の暦が合わないのは困る。幕府は新しい計算法を採用しようとしたが、天文方にはその力がなく、目に止まったのが大阪の麻田一門だった。こうして一番弟子の橋至時は1795年、天文方に取り立てられ、江戸に下った。ガードマンから一気に東大教授になったようなものである。伊能忠敬が20歳も年下の至時を師と仰いだことが理解できよう。至時はそれほど秀才だった。
1803年、至時はラランデのAstronomieのオランダ語本に出会い、腰を抜かしてしまう。ヨーロッパの天文学には中国経由で接していたが、このラランデの本は極めて高度かつ内容豊富で、明らかに格が違っていた。至時は寝食を忘れて翻訳に没頭し、そして、約1年後、「ラランデ暦書管見」11巻を残し、死去してしまった。肺結核に侵されていたとは言え、この翻訳作業が命を縮めたのは間違いない。
「ラランデ暦書管見」と原書を比較してみると、いくつかの事項を除き、極めて正しく理解していたことが分るという。しかし、これは奇妙なことだ。なぜなら、この当時、まだオランダ語辞書はなかったし、至時はオランダ語を知らなかった! それがどうして解読、翻訳できたのか? 実は、杉田玄白あたりが手探りでオランダの解剖書を訳したように、至時もそれまでの知識を総動員し、未知なる言語で綴られたこの大部の著書に手探りで挑んでいたのだった。
手元にあるのはそのオランダ本の元になったフランス語の原著である。私はフランス語が分らないので、この点は至時に同じだ。天体運行論についても素人だが、時代が進んでいる分勝っているから、まあ良い勝負になるかなと思ってぱらぱらとめくってみたが、あえなく討ち死にであった。情けないことに、至時の足元にも及ばない! がっくり! だが、それだけに、この書に初めて接したちょん髷姿のご先祖様がどれほど驚き、西洋の息吹を感じたことか、分るような気がした。
西欧の風は夕焼け空の向こうから船に乗ってやってきた。明治維新まで60余年という頃だった。
(2009.2.3.) |
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