大阪市に生まれる
彼は1915年(大正4年)、大阪市に生れ、5歳の時に両親や姉とともにカナダのバンクーバーに渡った後、ブリティッシュ・コロンビア大学を卒業した。在学中の先輩に後の共同研究者クリスティ(R. F. Christy)がいた。MITへ留学して修士課程を経た後、バークレーのカリフォルニア大学に移ってオッペンハイマーに指導を受け、1942年春、博士号を得た。そして、プリンストン高等研究所に移り、アインシュタイン(1879-1955)と会うことになる。1943年にはパウリ(1900-1958)と核力についての論文を書き、名門女子大学スミス大学の講師となった。その前に日米は戦争状態に入っていたから、日下は敵国人として大変苦しい状態におかれ、カナダにいた姉たちは内陸部へ強制移住させられるという具合で、戦争に翻弄されていた。1944年、日下は軍籍を得て陸軍科学研究所に移り、1946年に除隊するとプリンストン大学へ行ってウィグナー(1902-1995)の下で講師・助教授となった。そして、1947年8月31日、夏のセミナーが終わった翌日、同僚と海水浴へ行き、遠泳中に溺死してしまった。まだ31歳だった。
バークレー時代の1939年、ソルベー会議の後にアメリカにやってきた湯川と会っている(1)。その頃、日下はクリスティと共に中間子のスピンや宇宙線バーストに関する研究を行っているところだった。翌1940年夏、日下は初めて帰国し、大阪大学や京都大学で小林稔(1908-2001)、内山龍雄(1916-1990)らと議論し、湯川と再会した。
日下は1939年から1945年までの間に10編ほどの論文を発表している。最初の論文は宇宙線の起源を銀河系外に求めうるかを問うた修士論文(1939年)(2)である。2編目の「重陽子の4重極モーメント」(1939、クリスティと共同)(3)では重陽子の4重極モーメントを説明するには通常のマヨナラ力とハイゼンベルグ力だけでは不十分で、ある種のスピン−軌道相互作用を導入しなければならないことを示した。そこでは湯川・坂田・武谷らの中間子第3論文(1938)(4)を下地に議論し、湯川理論から導かれる相互作用は斥力であり、4重極モーメントは実験値と符号が反対になることなどを導いた。次の「メゾトロン(中間子)とガンマ線との相互作用」(1941、クリスティと共同)(5)は原子核の電磁場をクーロン場とした場合とクーロン場を原子核サイズでカットオフした場合の断面積を計算すると大きくかけ離れた結果となるというオッペンハイマーらの見出した問題を解決しようとした研究である。前年に帰朝した折に小林や内山らと議論したことがヒントになった仕事らしく、小林・内山も同時期に同様の論文(6、7)を発表している。4編目の「メゾトロンによるバースト発生」(1941)(8)もクリスティとの共同研究である。1937年に発見されたメゾトロンは現在で言うミューオンであるが、強い相互作用をしないこのメゾトロンを湯川粒子に同定しようとしていた頃の研究である。メゾトロンのスピンも確定していない時で、この論文で日下はそれを1/2か0というところまで追い込んでいった。この研究は坂田昌一(1911-1970)、谷川安孝(1916-1987)、井上健(1921-2004)らの2中間子論が生まれてくる背景となった。その後、1947年にパイ中間子が発見されてみると、果たしてそのスピンは0、ミューオンのスピンは1/2であった。5編目以降は「スピン3/2のニュートリノを伴ったβ崩壊」(1941、オッペンハイマーが示唆したニュートリノのスピン3/2を否定)(9)、「擬スカラー・ベクトル混合型メゾンの理論」(1943、パウリと共同。擬スカラー場での発散を避けるため新しいベクトル型メゾンに置き換えることを動機とした研究。この試みは失敗した)(10)、「バースト生成における放射ダンピングの効果」(1943、メゾトロンのスピンが1という研究に対する批判)(11)、「一次宇宙線のエネルギースペクトル」(1945、ミリカンらが一次宇宙線の正体を電子としたことを否定)(12)と続く。
日下も時代の子であった。湯川らに少し遅れて素粒子物理学の萌芽期にその世界に入り、手探りで進み始めたと思った矢先に戦争に翻弄され、事故で斃れてしまった。だが、その6年ほどの短い間にオッペンハイマー、パウリ、セグレ、ウィグナー、ウー、アインシュタイン、そして湯川など、現代物理学の確立に貢献した研究者と交流し、まさに彗星のごとく学問の舞台から消えてしまった。
確かに彼は早々に退場してしまったが、余韻は長く続いた。師オッペンハイマーは日下がバークレーを離れてから1年後、1943年7月にロスアラモス研究所長に就任し、原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)へと移っていった。そして、1945年10月にロスアラモスを離れ、1947年にプリンストン高等研究所長に就任した。日下はほぼ同じ頃に没してしまったが、その翌年、オッペンハイマーは湯川を、翌々年には朝永をプリンストンに招いた。疲弊した日本で苦労している研究者にいくらかでも支援を、と考えての計らいであったと言う。オッペンハイマーは愛弟子の日下を通し、日本にある種の親しみを感じ、それ故に悔恨の情にとらわれることがあったのではなかろうか。そうした気持ちが湯川や朝永への支援となり、ノーベル賞の推薦へと結びついたではないかと想像される。
プリンストン大学には日下奨学金が設けられ、現在でも物理の優秀な学生の表彰を行っているという。これは日下の死後、カナダの遺族や関係者が原資金を提供して始まったもので、現在はKEKでも実験の経験があるD. R. マーローさんが担当している。
研究者として活動できたのは6年程度だったから、日下の残したものはそう多くはない。約10編の研究論文の他に、オッペンハイマーが日下の家計を助けるため出版を薦めた講義録がある13)。日本では小林稔が翻訳を行い、「オッペンハイマーの電気力学」として出版され(14)、後に吉岡書店からも出された。また、アインシュタインの伝記をフランクが出版した時、科学者の立場から英訳の編集・校訂を行っていて(15)、その日本語訳も出ている(16)。
オッペンハイマーと日下の関係については藤永(17)に簡単に触れられている。
参考文献
1) 湯川秀樹:「極微の世界」(岩波書店, 1942)
2) M. S. Vallarta, C. Graef, and S. Kusaka: Phys. Rev. 55(1939), 1
3) R. F. Christy and S. Kusaka: Phys. Rev. 55(1939), 665
4) H. Yukawa, S. Sakata and M. Taketani: Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 20(1938), 319
5) R. F. Christy and S. Kusaka: Phys. Rev. 59(1941), 405
6) M. Kobayasi and R.Utiyama: Sci. Pap. Inst. Phys. Chem. Research, Tokyo 37(1940), 221
7) M.Kobayasi and Utiyama: Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 22(1940), 882
8) R. F. Christy and S. Kusaka: Phys. Rev. 59(1941), 414
9) S. Kusaka: Phys. Rev. 60, 61 (1941)
10) W. Pauli and S. Kusaka: Phys. Rev. 63(1943), 400
11) S. Kusaka: Phys. Rev. 64(1943), 256
12) S. Kusaka: Phys. Rev. 67(1945), 50
13) S. Kusaka: NOTES ON ELECTRODYNAMICS (Physics 207B, Oppenheimer, 1939), with the collaboration of S. Frankel and E. Nelson (1939)
14) 日下周一編、小林稔訳:『電気力学』(学術図書出版社、1950)
15) P. Frank: Einstein, His Life and Times, translated by G. Rosen,edited and revised by S. Kusaka (Alfred. A. Knopf, 1947)
16) P. フランク、矢野健太郎訳:『アインシュタイン』(岩波書店、1951)
17) 藤永茂:『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(朝日新
聞社、1996)